道頓堀の演芸文化
道頓堀 今井/Bar マスダ
大阪最大の繁華街ミナミ。
毎日多くの人が行き交うこの街ですが、にぎやかな電飾看板と活気のある飲食店が立ち並ぶ道頓堀、バーやクラブが夜の街を彩る宗右衛門町、路地を一本入ると風情のある街並みが広がる法善寺横丁と、実はそれぞれ独自の個性を持った地域に分かれています。
大阪と言えば、「お笑い」や「たこ焼き」等のイメージが持っている人が多いかもしれませんが、実はミナミのあたりは、江戸時代に芝居小屋がたくさんつくられてそのお客さんが飲食をするお店が出来たことから発展したという歴史を持っています。
ミナミの歴史を掘り下げることで、大阪の新しい魅力が見えてくるかもしれない。
そんな狙いから、この企画では、第1回「芝居」、第2回「JAZZ」の2つの文化に焦点を当て、長年この街で人々に愛されてきたお店のお話をうかがいながら、芝居の街、JAZZの街としてのミナミを楽しみ方を考えます。
第1回のテーマは「芝居」。芝居と言えば、2020年11月~2021年5月に放送された上方女優の浪花千栄子の半生を描いたNHKの連続テレビ小説「おちょやん」で、主人公が道頓堀の芝居茶屋で女中奉公をしていたのが記憶に新しいところ。物語の舞台の明治時代の末期から戦後の高度経済成長期にかけては、江戸時代から続く浪速の五座と呼ばれていた弁天座・朝日座・角座・中座・浪花座(竹本座)を中心に「芝居の街」としてミナミが栄華を極めていた時代でした。今回は移り行くミナミの街の中で商いを続けて来た2つの老舗「道頓堀今井」と「Barマスダ」を尋ねました。
道頓堀の歴史と文化を見守り続けるうどん屋
道頓堀 今井
道頓堀今井は道頓堀の中心通りにお店を構えるうどん屋さん。昭和21年創業と聞いて納得の趣のある店構えの老舗ですが、実は、歴史をたどると戦前は楽器屋さん、そして江戸時代は芝居茶屋をしていたそうです。そう言えば、ドラマ「おちょやん」に出てきた芝居茶屋「福富」も、楽器屋さんに改装していましたね。そんな道頓堀の歴史と共に歩み続けてきた道頓堀今井の7代目今井徹(いまい とおる)さんにお話をうかがいました。
道頓堀は粋で大人な芝居の街
今の道頓堀はどちらかというと飲食店が立ち並ぶ繁華街のイメージが強いので、芝居の街としての歴史があるという話を聞いてちょっと意外でした。当時の街はどんな雰囲気だったのでしょうか?
今井といえば道頓堀では200年近くなるので、よく全てを知ってるみたいに思われるんですが僕自身は、戦後の昭和34年生まれなので「おちょやん」の時代はさすがに知らないですよ(笑)
ただ、当時のことをおじいちゃん(5代目)から聞くことはありました。「粋な街」やったみたいですね。明治~戦前の道頓堀は船場の旦那さんが遊びに来る街でした。何をして遊ぶかというと、芝居を見る、落語を聞く、浄瑠璃を楽しむといったことしていて、その後にみんなで芝居茶屋に集まって宴会をするというのがお決まりの流れだったみたいです。川をひとつ北に渡ると宗右衛門町があるのですが、そこが当時は格式高い、京都の花見小路の様なメインストリートになっていて、立派なお茶屋さんが並んでいました。だから、「大人の街」ですね。子どもが遊びに来るような街ではなかった。
道頓堀今井代表 今井徹さん
京都の祇園のような雰囲気でしょうか。今の普段の街の様子からは想像がつきませんでした。
戦争で一度街が全部焼けてしまったのは大きいかもしれません。うちの父親が若い頃なんかはまだお茶屋さんも残っていたみたいですよ。まだ小唄や清元(三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種)なんかをやってはる人がいましたから。昔の旦那の遊びというと、歌舞伎や浄瑠璃なんかを真似して披露することやったんですよ。当時のお茶屋さんでは芸妓さんがみんなある程度小唄や清元ができるから、そこに習いに行って宴会の場で披露するんです。旦那さんが芸妓さんに「ちょっとあれやってえな」と言って浄瑠璃を語る感じですね。
画家の鍋井克之さんが描いたありし日の道頓堀今井
楽器店だった頃のお店のステッカー
歌舞伎なんかだと、顔見世(1年に1回、役者の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行)というのがあるんですけど、その演目をみんなで一生懸命覚えて再現するんですよ。役者さんに教えてもらいながら、芝居茶屋に集まっては仲間内で「ああでもない、こうでもない」と議論をする。そんな風に実際に舞台に立つ人と同じ目線で見ると「ほんまもん」のすごさが分かりますよね。そのへんが道頓堀が芝居の街だった頃の奥深さなんだと思います。
だから「芝居の街」というのは、ただ芝居小屋がある街ということではなくて、そこで商売をしている人、住んでいる人みんなが色々なかたちで芝居に関わっていたということなんです。
その頃の道頓堀はある意味「格」があったんやと思います。
芝居を通してほんまもんの文化にふれる
当時の街のことをもっと知りたくなりました
僕が大人になった時に唯一残っていて、すごかったのは大和屋さんです。今はもうないんですけど。昭和45年か昭和50年くらいまではえべっさんの時なんかは大阪の財政界の方々がみんな大和屋さんに集まってたんですよ。後は、宝恵駕行列と言って、元々船場の旦那衆がお気に入りの芸妓をかごに載せて今宮戎神社まで参詣するという伝統があるんですが、当時は大和屋さんのお得意さんやった財界の偉いさんたちが自分のお気に入りの芸妓を載せてかごを仕立て、宗右衛門町から今宮戎神社までお参りにいってました。十日戎の時の参道ってだいたい人で埋め尽くされてるんですが、この宝恵駕が来るとみんなさぁーっとよけて道が出来るんです。最後は、大阪締めをして帰る。当時の大和屋さんは本当に華やかでした。
大和屋の歴史がつまった大和屋歳時 南地大和屋 著/柴田書店/1996
大阪のミナミにこういう文化があったということを語り継ぐために大和屋記念館みたいなものをつくったらええのにと思うこともあります。今の若い子たちって、史跡巡りとか、美術館巡りとか人気じゃないですか。世間では、メタバースが話題になってますけど、今、逆にみんなが求めているものがライブに戻ってきてる気がするんです。映像じゃなくて、実際に体験することの価値が見直されてるのではないかと思います。
大和屋の店内には能舞台があった
今、「粋な街」道頓堀を体験するとしたら、おすすめの楽しみ方を教えてください。
やっぱり、まずは歌舞伎を体験してみるのがいいと思います。みんながみんなハマることはないと思いますが、歌舞伎を見てそれにまつわる料理を食べたり、そのお話の由来になっている場所を巡ったりすると「大人な街」を体感できるんじゃないでしょうか。道頓堀の芝居小屋はほとんどなくなってしまいましたけど、松竹座はまだ健在ですから。松竹座でやる歌舞伎はいいですよ。やっぱり「ほんまもん」やと思います。
地元の人に愛される街であって欲しい
道頓堀って時代の流れと共に移り変わっていく街という印象があるのですが、今後の道頓堀をこんな街にしていきたいという思いはありますか?
やっぱり、地元の人に愛される街であって欲しいと思います。地元というと大阪の人。大阪の人がよその人から「大阪って何がおもろいねん?」って聞かれた時に、「せっかく大阪来たんやったらいっぺん道頓堀行ってみ」と大阪の人が言ってもらえる街であって欲しいなと思います。
毎月季節の限定メニューが楽しめるのも道頓堀今井の醍醐味
写真は1月の限定メニュー「寿そば」海老しんじょうに鴨ロース、 焼いたお餅、紅白の水引に七草のひとつ うぐいす茶に松葉柚子あわせた華やかな一品。
だから、僕は道頓堀で商売をしてる人間が街の歴史や街が育んだ文化を知ることが大事やと思ってるんです。歴史や文化を知るとちょっと背筋が伸びるじゃないですか。今はテナントのお店も増えてきて、よそから来た人に「街のことをもっと知ってください」と言っても中々響かないこともありますが、「道頓堀で商売をするならこのことは知っておいてください」ということを地道に伝え続けていきたいと思ってます。
道頓堀今井で引き継がれているサイン帳 一番古い昭和33年1月から壷井栄さんとか。辰巳柳太郎。旭堂南陵。竹本綱太夫。 林与一。桂米朝。 市川 猿之助。勝新太郎。
時代を彩だった各界のスターが名前をつらねる
来るお客さんも心地良い緊張感を味わえるような、かつての大人の街としての魅力を発信していきたいですね。僕が幼い頃は「あんた今日道頓堀行くから行儀よくせなあかんで」と言われるような格がありました。それを取り戻すにはまずは、商売をする我々が行儀よくならないと。
食とお酒の街 宗右衛門町の玄関口
Bar マスダ
続いて足を運んだのは、戎橋を渡って右、宗右衛門町の入り口を入ってすぐのところにあるBar マスダ。扉を開けると外の喧騒が別世界の様な温かく落ち着いた空間が広がっています。カウンターで出迎えてくれたのは、衣装のベストと蝶ネクタイがきまっているマスターの増田隆史(ますだ たかし)さん。
宗右衛門町を見ていたら時代の変化が分かる
今では歓楽街のイメージが強い宗右衛門町ですが、道頓堀と同じく古い歴史があると聞きました。
400年くらいの歴史のある街なんです。
一番最初に道頓堀が出来て船が入って、両側に町屋が出来たのがこのみなみの街の発祥です。その中で娯楽を楽しむための芝居小屋が道頓堀に出来て、その後役者さんが飲み食いをするための街として生まれたのが宗衛門町のはじまりです。江戸~戦前の宗右衛門町にはお茶屋さんや小料理屋さんが軒を並べていて、大阪の中では品格の高い街でした。
Bar マスダのマスター 増田隆史さん
僕は、宗右衛門町を見ていたらこれからの街の変化が分かると思ってるんです。芝居茶屋が出来た後は、バーやキャバレーが出来て、また時代が変わるとホストクラブやキャバクラが出来る。インバウンドがすごく増えた時には、ドラッグストアが20軒近く出来ました。時代の流れにすごく敏感なんです。夜の街はどんどん変化していきます。
今の様子を見慣れてしまっていましたが、色々変遷があったのですね。
そうなんです。例えば道なんかも昔はすべて石畳だったんですよ。その後だんだん変化があって、僕がお店に入った50年前には、道の両サイドにわずかに石畳が残っているような状態でした。平成になってから、商店会で石畳を復活させようという動きがあって、路上看板を撤去したり、電線を地中化したりという取り組みを続けて17年かけて実現しました。
Bar マスダのマスター 増田隆史さん
時代と共に変化して、キャバレーの街になったり、ドラッグストアの街になったり、宗右衛門町ってごったな街にみたいに思われがちですけど、ずっと頑張ってる歴史あるお店もあるんですよ。例えば、うなぎの菱富さんなんかは、このへんでは一番続いていたりします。中華料理の明陽軒さんなんかも有名ですね。日本の焼肉文化発祥のお店と言われている食道園さんなんかもあります。だから、僕も街が変わろうともこのお店は守っていきたいと思いながらやっています。今年で創業64年になります。
はじめはこんな仕事やってられへんなって思ってました
変化の激しい街でお店を続けてこられたことの重みを感じました。Bar マスダがこの街でお店を創業した経緯を教えてください。
戦後間もない頃、浜寺(大阪府堺市)に進駐軍がいたんですけど、うちの父親は英語を話せたので戦争から帰ってきた後そこのバーで働きはじめたんです。それから自分のお店をつくるのですが、最初の頃は人のお店の軒先を借りて、簡易のカウンターをつくって椅子を並べて洋酒を置くところからはじめたみたいです。その後、お金が溜まってきたら正式にお店を出すのですが、住吉、野田阪神ときて、ここ宗右衛門町にお店を出したのが昭和33年のことでした。
当時の宗右衛門町は企業が接待で使う街で、団体さんが多くてお酒の飲み方も派手な人が多かったんです。その頃僕はまだ18歳だったので、酔っ払いが怖くて心の底で「こんな仕事やってられへんな」って思ってました(笑)心境が変わったのは20代の前半の頃、お客さんにえらく怒られたことがあったんです。その時は、家業だから嫌々お店に入ったという思いがあったので、お客さんに「僕、ほんまはこの仕事イヤなんですわ。」とこぼしたら、いつも笑ってるお客さんがえらい怒って「お前は卑怯や。イヤやったら辞めるべきや。金を出してる僕らにイヤやというのはおかしい」と言われました。その時に、はじめてイヤやったら辞められるんやということに気づいたんです。それやったら、思い切って辞めるか、一生懸命やるかどっちか選択せなあかんなと思って、それから心を入れ替えてこの仕事に打ち込むようになりました。
これからバーを盛り上げてくれる若いお客さんも大事にしたい
そんな歴史があったとは、、、
今はお店にはどんなお客さんがいらっしゃることが多いんですか?
僕がお店に入った時は、うちのお客さんの8割が企業、2割が個人でした。今は、8割が個人のお客さんで、企業で残っているのは2割から1割くらい。昔は企業の中で、行きつけのお店を引き継ぐという文化があったのですが、今は仕事でお酒を飲む機会自体が減ってますよね。
逆にSNSの情報をたどって来てくれる個人のお客さんは増えています。インバウンドブームの時は日本人が1人も入ってないくらい外国の人が多かった時期もありましたが。みんなSNSで調べて来て下さるんですよ。僕がカウンターに立つと昔は常連さんが多かったですけど、今では7割くらいが知らないお客さんです。そこでお店のことを知ったのか聞いてみたら、東京から旅行に来てどこにいったらいいか分からないから検索してきましたみたいな。今はそういう時代なのでネットでの情報の発信は大切にしています。SNSでコメントがあれば必ず返信しますし、口コミサイトで高評価をいただいたら、「ありがとうございます。スタッフの励みになります」とコメントします。
ファンコミュニケーションのお手本みたいですごいです。 ネット上に情報があるとはじめてでも安心してお店に入りやすいと思いました。
僕も15年くらいまでは、お客さんがネットで検索してお店に来ることはないと思っていました。バーって「空気」が大切なんです。同じお酒を出していたとしても、そこに流れている空気が違う。お客さんはその空気を選んで来るから、ネットでは伝わらないんじゃないかと思っていました。でも今は、みんなネットの情報を見てお店に来てくださるのでびっくりしています。HPに新しいお酒をあげたら、新しいお客さんが来てそのメニューを注文するみたいなことが日常的にあります。嬉しいのは、最近ちらほら若い人でバーデビューの人たちが来てくれることです。「どんな注文したらいいんですか?」とか、「ウイスキー覚えたいんですけど、最初はどんなん飲んだらいいですか?」とか聞いてくれます。僕らとしては若い人たちはこれからバーを盛り上げてくれる人たちなのでそういうお客さんを大事にしていきたいと思っています。
左「波動モスコミュール」
波動陶器という波動させて中の飲み物を柔らかくする沖縄で焼いた壺でつくる特製カクテル。高知のショウガを山ほど入れて、ショウガの風味のするウオッカを使った辛めのジンジャエールをべースにしたモスコミュール。
右「宗右衛門町(オリジナルカクテル)」
街おこしのためにつくったオリジナルカクテル。宗右衛門町は夜の街で女性が活躍する街なのでざくろと女性の若返りの秘薬と呼ばれているジュースを使いつつ、ちょっとくせのある街ということでアクセントにテキーラをベースにしている。
食と酒、川のある街 宗右衛門町
これからバーデビューしたいと考えているのですがどんな風に楽しむと良いのでしょうか?
一番いいのは、「バーあんまり来たことないんですけど、こんな味が好きです」って素直に聞くことですね。あとはだいたいなんぼぐらいで飲みたいのかの予算。好みと予算を聞かせてもらったら、その中で一番美味しく飲めるものを出します。
バーっていろいろな楽しみ方があるんです。お酒を楽しみに来るお客さん、2人で話をするために来るお客さん、毎日のように来て僕と会話をすることを楽しみにしてくれているお客さん。いろいろなお客さんがいます。だから、楽しみ方は自由なんですが、僕は珍しいお酒をたくさん集めているので、せっかくならうちでしか飲めないものを飲んでもらえたらいいなと思っています。
宗右衛門町のバーと聞くとちょっと身構えてしまうところがありましたが、肩の力を抜いて、気軽に行ってもいいんだと思いました。
特に大阪の外から来られるお客さんは宗右衛門町に色々なイメージを持って来られると思います。怖い街なんじゃないかって思って来られる人もいるかもしれませんが、そういう人たちの思いを変えていくのが僕らの仕事やと思ってます。商店会では、「食と酒、川のある街 宗右衛門町」といううたいもんくでやっているのですが、外から、どうかなと思って来られたお客さんに、宗右衛門町や大阪って美味しいもんがたくさんあって楽しい街だったと思って帰ってもらうことが、今後の大阪の街の発展に繋がると思っています。
SHOP DATA
Bar マスダ
〒542-0085 大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目3−11
06-6211-0690
18:00~25:00
最後に
皆さんいかがでしたでしょうか?
歴史や文化を知ることで、普段何気なく歩いているミナミの街の景色がちょっと変わって見えるかもしれません。大阪にお立ち寄りの際は、是非、道頓堀や宗右衛門町に足をのばしてみてください。そこでは思いがけない新しい世界との出会いがあなたを待っているかもしれません。